「迷惑」について考えてみた

ずいぶん前になるんですが、子育て系のフリーペーパーが自宅の郵便受けに入っていたので、開いてじっくり読んでいたんですね。その中で、子育て支援系の事業をされている方が新米の親に対してアドバイスするコーナーがあり、その号は「叱る」がテーマでした。

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その方は、我が子に対して叱る時、対象となる行為を3つに分類し、それに応じて叱り方(度合い)を変えているとのことでした。

僕が違和感を感じたのは、その段階で最も高いレベル —- 最も強く、最も真剣に(その方が言うには、目をまっすぐ見て)叱るべき事由 —- が「他人に迷惑をかけた時」とされている点でした。

日本は迷惑大国

日本人は物心つく前から「他人に迷惑をかけてはいけない」と教えられて育ちますが、その浸透度合いはスゴイものがあります。

同僚に「迷惑」をかけられないので休みがとれない社会人、「迷惑」になるので乳幼児を連れて電車に乗れない保護者、「迷惑」をかけるので公園でのボール遊びはNG、盆踊り大会や地域の祭りさえ少数のクレームで中止……。

今は子どもに迷惑をかけないよう死に方を考えて準備しておく必要があるようですし、会社で使うエクセルファイル同僚や引き継ぎ時に迷惑をかけないためのが出版される時代です(子どもに迷惑をかけないようにするなら親の生き方の方が重要だと思うし、それがキチンとしている親なら妙な死に方をすることも少ないのかなと。それと会社のエクセルは同僚や引き継ぎで迷惑をかけないためではなく、効率的にするという観点でそうあるべきかと。まあ、本を売るためのコピーだと思いますが)。

とにかく、誰かに迷惑をかけないことが前提としてまずあって、迷惑ではないと社会的に思われていることが個人として選べる選択肢となるわけです。← 多分、我々日本人はこれを読んで「当たり前のこと」と考えると思いますが。

僕は自分の子育てでこの言葉は使わない

僕は娘が生まれる前から、もし自分が子育てできるなら、「人に迷惑をかけてはいけない」と教え育てることはしたくない、そう思っていました。

人の家の前にごみを投棄するとか、住宅街にある自宅で深夜に大音量で音楽を聴くとか、他人を加害するのが明らかな行為は別として、何を迷惑と感じるかは人によって違います。「これなら迷惑をかける」「これなら迷惑にならない」という線引きはできません。線引きできないから、「これをすると迷惑をかけるかも知れない」と考え、自分の行動を制限する可能性が生じます。

この、他人に迷惑をかけるかも知れないという考えが、さまざまな弊害を生んでいきます。

命を失うことがある

この最大の弊害の一つが、命を失うことにつながる、です。

命に関わる状況にもかかわらず、親戚や友人、隣人に頼ることができず、年老いた病気の親を介護する息子/娘や、経済力のない親(主に女性)が子どもと心中したり餓死したりする事件が起きるたび、彼ら/彼女たちに染みついた「他人に迷惑をかけられない」が、「恥」や「自己責任」といった観念と混じり合い、こんな結果を招いたのではないかといつも考えてしまいます。

命より重い迷惑行為は、あまりないはずです。

狭量な人間に育つ

「他人に迷惑をかけてはいけない」と教わり続け、実際にそのようにしながら育っていくと、自身が迷惑だと感じる範囲が広がっていくのではないかと想像しています。

最初は迷惑だと思ってもいなかった行為でも、「これは他人に迷惑だと思われるかも知れない」と考えて行動を取らない(我慢する)選択をしていくうちに、その行為をする人がいた時に「迷惑な人だな(自分も我慢しているのに)」と考えるように変わっていくのではないか。

迷惑かも知れない → 行動を制限する → 自分も迷惑だと考えるようになる、のサイクルが繰り返されるとそれが強化され、また迷惑だと考える行為の種類も増えていきます。

自分と他人は全く別の人間であることをキチンと理解していなかったり、意見や考え方が異なる人を敵対視してしまいがちな我々日本人は(と書くと主語が大きいですが)、無関係な他人に対しても自分と同じ考えであるべきだと考えてしまいます。

「これをされたら迷惑」と考える行為が多ければ多いほどその人は狭量になり、人を許せなくなる。

そんな生き方、辛過ぎます。

同調圧力に弱い人になる

大量に書き込まれた(しかも常に増え続ける)迷惑行為リストを脳内に所持する狭量な人間になると、そのリストに記載のある行為をしている人を許すことができず、止めるよう圧力をかけがちです。

いわゆる同調圧力です。

他人に同調圧力をかける人は、他人からかけられる同調圧力に弱い傾向があるんじゃないか、と僕は考えています。

娘が同調圧力に支配されながら生きるなんて、考えたくもありません。

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ではどうするのか

どうしましょうね(笑)。

僕がこうなったらいいなと思うのは、娘が迷惑という言葉の呪いにかかることなく、自分がやりたいと思ったこと素直に行動できること、なんですよね。

冒頭のフリーペーパーにあったように、娘が「他人に迷惑をかけた時」はやはり僕も叱るとは思いますが、迷惑をかけたことそれ自体を叱ることはしたくないですね。

もちろんどんな行為かにもよりますが、やろうとしていること/やったことが他人に与えるネガティブな影響や結果(つまり迷惑をかける)に話の軸を置くのではなく、なぜそうしたいのか、行為を通じて何を獲得しようと思ったのかについて話し合いたい。

ちょっと分かりづらいので例を挙げると、例えば、グレタ・トゥーンベリさん。

当時15歳だった彼女が、2018年8月に気候変動に対する政府の無関心への抗議を目的に1人で国会議事堂前に座り込んで学校ストライキを始めた時、その行為が周囲に与える影響を重視して物事を判断した場合、「学校や国会(そして親や親戚など)に迷惑がかかるから止めなさい」となるでしょう。

しかしグレタさんの両親は、彼女の資質や性格を踏まえ、その行動によって達成したい目的(そしておそらく、そのプロセスから彼女が学ぶであろう様々なこと)を重視して、彼女をサポートすることを決めます。

活動の中心であるグレタさんに注目が集まっていますが、僕は、彼女の両親が、あくまでグレタさんを軸として物事を考慮、判断してサポートしていることにすごく感銘を受けるんですよね。

僕の周りでイキイキとしている人はみな、周りに迷惑をかけている

グレタさんのような世界的な人物のみならず、僕の周りを見渡すと、イキイキと生活している人って、良い意味で(?)周囲に迷惑をかけているように見えます(笑)。

「これを頼むと迷惑かな?」という心配よりも、これを頼むことで実現したいことの価値の方を重視して、思い切って行動する(と言うより、多分「これ頼むと迷惑かな?」と考えていないんでしょう)。でも、頼んでみると意外と迷惑だと感じる人は少ないし、むしろ積極的に行動している人を支援したい、協力したいと考える人って多いんじゃないですかね。

要するに、迷惑かもと尻込みしてしまいがちなことでも、実際にはそうではないことが多い、つまり迷惑じゃないってことなんですよね。

そうした人たちは周囲を巻き込みながら色々なことを実践して前進し、ポジティブな結果を生み、共有しているように思います。

あからさまに煙たがる人もいますが、そのような人とは距離をとればいいだけです。

娘には(どちらかと言えば)そういう生き方ができるようになって欲しいと願います。

知るべきこと

最後に書いておきたいのですが、根拠が不明瞭な迷惑な行為と、法律に違反した行為、犯罪行為とはしっかり線引きしておく必要があると思っています。

日常生活を送るために必要となる最低限の法律は知っておくべきですし、それに違反している人がいればしかるべき対応が必要です。

加えて、自分や他人、つまり人がどんな権利を持っていて、どんな義務を負っているのかを、しっかり理解しておくべきだとも思います。

事なかれ主義や法的根拠のないローカルルール※1がはびこる世の中で、自分は何をしていいのか/してはいけないのかを、それは何によって(法律なのか地域の慣習なのか)裏付けられているのかを正しく知っておくことが、自分を解放したり、他人にも寛容になれる大切な要素なのではないかと。

ですが、こうしたことを義務教育で習うこともないし、法律の存在って全然身近じゃないんですよね。少なくとも僕にとっては。

そのあたりも含めて、娘と一緒に学んでいきたいですね。

aw

Live in Tottori-Pref, JPN. Love Camp, Sandwich, Coffee, Beer and Scotch on the rock. Pursuing Self-Sufficiency Life.

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2件のフィードバック

  1. curu-curu より:

    awさんこんにちは!
    今回の記事を拝読して、以前、自分が子どものこだわりとワガママについて悩んだことを思い出しました。長女が市の3歳児検診を受信した際、小児科の先生から「この子はこだわりが強すぎるから心得ておいてください」というようなことを言われ、「こだわりが強いと何がいけないんだろう? こだわりとワガママはどう判断すればいいんだろう?」と、しばらく頭でっかちになったことがありました。
    でも、友だちと遊んでいる娘の様子を見ながらふと、結局、娘のこだわりが強いことについて、相手がどう感じるかによるんだな、と思ったんです。相手がイヤだなと思えば、それはワガママになるのかな、と。そうなると娘自身や母親であるわたしがどうこうできるものでもなくて、日頃から目の前にいる娘をよーく見ていればそれでいいんじゃないかと。そう考えるようになったら膨らみすぎた頭も次第にしぼんでゆきました笑。

    人は人と関わらずに生きていくことなんて到底できないし、その関わりのなかでのやりとりを迷惑と感じるかどうかは相手次第。同じ人でも、その日の心の余裕度合で違ったりもします、自分だってそうです。同じ要求をされても、快くハイハイ、と受け入れられる日もあれば、えー、今日はちょと面倒だなぁ、なんて思う日もあります。でも、そんな時でもきっと「ありがとう!」って笑顔でひとこと言われたら一瞬で「いいよー!」って気持ちは切り替わってしまうものです。
    自分も日頃からまわりの人に「スミマセン」の代わりに「ありがとう!」を心掛けています。そのほうが相手も気持ちが良いと思うし、たとえ「迷惑」だと思われていたとしても「ありがとう!」の一言で、「協力した」と感じてくれてるんじゃないでしょうか。。。そう願います!笑

    6年生になったこだわりの強すぎる長女は、先日、学校代表のあいさつで「のこりの学校生活、友だちや先生、まわりの人をたくさん頼って、そして自分も頼られて、助け、助けてもらいながら、思い出をつくっていきたいと思います」と言っていました。
    迷惑上等!たくさん迷惑をかけてかけられて、友だちや先生と絆を深めながら、残りの小学校生活を思う存分、楽しんでほしいと思います!

    • aw より:

      curu-curuさん、こんにちは! いつもありがとうございます☺️

      子どもが幼い頃はいろいろと考え込んでしまいますよね〜

      娘さんの挨拶、とてもいいですね。僕も娘がもっと幼い頃に「困ったら手伝ってと言えばいいんだよ」と、ひたすら呪文のように諭してました。困ったら誰かに頼ろう、そのかわり頼られたら応えよう、という感じですね。今の娘を見ていると身についてない気もしますが😅 まあ幼い頃に学んだこと経験したことがいつ生きてくるかは分からないものなので、気楽に構えてはおります。

      「ありがとう」の言葉も大切ですよね〜。同じ意味で「ごめんよ〜」「すみません」などと言ってしまいがちな日本ですが、(迷惑かけて)(手間とらせて)といった文言が前に隠れていることを考えると、やはり「ありがとう」を使いたいですよね。まだ娘は「ありがとう」しか使わないので、このままでいてくれると嬉しいな〜と思っています。

      今回は、どこか引っ込み思案なところのある娘が今後より伸び伸びと生きていくには、みたいなところに以前から考えていたテーマを載せて書いてみたんですが、これまでの人生、周囲に迷惑ばかりかけてきて助けられてきた自分の正当化みたいに感じる部分もあって(分中のイキイキしている人というのは僕じゃないんですが)、読み返して苦笑いしています😊

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